彷徨い女の息抜き日記

備忘録。自分の中に浮かんだこと、ポツポツと。Yahoo!ブログ終了に伴い、お引越し。

母の死んだ日

朝、駅に向かう坂道。

「葬式には出ない。お金は出す。あいつに会うつもりはない。親の葬式に出ないことを叱るなら、親の葬式に出ないような子どもに育てた自分を責めろよ」

と、父が死んだら、そう母に伝えよう、と考えていた。

 

その日、母が死んだ。

 

あいつとは、兄のことだ。

私は小学生〜あいつが家を出て行くまで、

あいつから、舌打ちや死ねなど、精神的苦痛を日常的に受けていた。

 

母に助けを求めたが、「お兄ちゃんに聞いたけど、そんなことしてないって言ってたよ」。

 

「チクってんじゃねーよ」と、ますます陰湿になった。殺されると本気で思っていた。私が音を出す度、舌打ち。すれ違う度、「死ね」。

自室で音を出すと、壁を蹴られる。自主的に口にガムテープを貼って寝た。

 

家族で食卓を囲むことも苦痛だった。「お兄ちゃんと一緒に食べるの嫌だ」と母に言った。

「そんなこと言わないの」で終わった。

死にたくなった。

 

いつだったか、一人で夕食を食べている時、兄が帰宅した。

私は震え出し、泣き出し、自室に駆け込んだ。

ヒステリック。限界だった。

 

そこから、私は、家族の食卓という、地獄の空間から解放された。

 

今でも誰かと食事を一緒に取ることへの抵抗が半端ない。黙食、万歳。

 

先に母が死ぬのは想定外。

いや、もしかしたら、母が先かな、と思っていたかもしれない。

あいつの結婚式、本当は出たくなかった。そのことを母に伝えたが、「そんなこと言わないの」と叱られ、死にたくなった。

 

会場で両親並ばせ、遺影にしようと写真を撮った。

母が左で、父が右。

これだと母が先に逝く感じだな、と薄っすら頭に浮かんだのを覚えている。

実際にこの写真が遺影になった。

 

母が死んだと、職場で父から連絡を受けた。

泣きながら、引き継ぎ書類を作成して、実家へ。

 

あいつと20年以上ぶりに、まともに言葉を交わした。

目の前の、母の死、と言っても遺体もない状況。何が何だか分からず、事実確認など情報共有をした、と思う。

 

初めて甥、姪にも会った。それなりに仲良く振る舞えたかと思う。

 

でも正直、人一人死んだくらいで、精算できる心の傷じゃない。

 

家族ごっこが、辛い。

父の面倒も、見たくない。

甥や姪に、私が兄から受けたことと同じことをしてやりたいと思う。でも、悲嘆にエネルギー取られ過ぎて、そんな気力すら無い。

 

歯車狂ったまま、体裁整えるの、辛い。

まともに仕事も行けない、精神科で眠剤処方してもらっても、寝れない。

 

この状況を父にも、兄にも伝えてない。

助けを求めても、救われないシステムだから。

助けを求めても、死にたくなるだけだから。

 

こういう家族背景もあり、私のグリーフは、辛くなっているのでは?と思っている。

 

グリーフケアの一環で、書くのがよい、とあったので、実践してみた。